聖書メッセージシリーズは「千葉みどり台教会ブログ」へ移行しました。 今後はそちらをご覧ください。このページは当面残します(更新はしません)。

聖書メッセージ 板倉邦雄牧師
第二十三回 怒っても、罪を犯すな        2011年11月20日  

4:3 日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした。
4:4 アベルもまた、その群れのういごと肥えたものとを持ってきた。主はアベルとその供え物とを顧みられた。
4:5 しかしカインとその供え物とは顧みられなかったので、カインは大いに憤って、顔を伏せた。
4:6 そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのですか、なぜ顔を伏せるのですか。
4:7 正しい事をしているのでしたら、顔をあげたらよいでしょう。もし正しい事をしていないのでしたら、罪が門口に待ち伏せています。それはあなたを慕い求めますが、あなたはそれを治めなければなりません」。 (旧約聖書 創世記 第4章3-7節)

○“怒りを遅くする者は、悟りがあり、気の短い者は愚かさを現わす”とは、聖書の言葉です。短気の私には、耳の痛い言葉ですね。
○さて今日は、兄弟バトルについてお話ししましょう。旧約聖書の創世記四章の続きです。兄弟バトルのきっかけは、二人の神様へのささげ物でした。二人のささげ物に対して、主なる神様は、全く正反対の態度を取られたのです。
(一)兄カインは、「地の作物」をささげ物として持って来ました。農業の彼にとっては当然でした。他方弟アベルは、羊飼いでしたので、羊の初子、しかも最良のものを、それも自分自身で持って来ました。
神様は、弟アベルとそのささげ物に目を留めます。しかし、兄カインとそのささげ物には、目を留めなかったのです。理由は、ささげ物ではなく、ささげる人の姿勢にあったようです。弟アベルは、最良のもの、しかも自分自身で持って来たと書いてあります。
しかし、兄カインは、地の作物から、取りあえず、しかも、他の人にささげ物を持って行かせた様なのです。神様の求められているのは、“供え物”ではなく、供え物をする私たちの信仰の心です。信仰によって、アベルはカインよりもまさったいけにえを神にささげ、信仰によって義なる者と認められた。」(ヘブル11:4) ところが、兄カインには、感謝しへりくだり神様と共に生きようとする信仰の心がなかったようですね。
(二)さて、兄カインは、「神は不公平だ」と頭にカッと来て怒り、神の視線に顔を伏せます。悪いことをした子供が、親の前で顔を伏せるのに似ています。
主なる神は、カインにやさしく、諭します。“なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ顔を伏せるのか。正しく行ったのであれば、まっすぐ立っておればいいでしょう。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。”
聖書の言葉が迫って来ます。“怒っても罪を犯してはならない。憤ったままで日が暮れるようであってはならない。悪魔にチャンスを与えるな。”(エペソ4:26~27) 怒りと憤りをため込むとどうなるでしょう。ねたみや嫉妬に狂うとどうなるでしょうか。憤ったら、その日のうちにガス抜きが大切です。

 


 

第二十二回 子供の誕生と成長              2011年11月13日  

4:1 人はその妻エバを知った。彼女はみごもり、カインを産んで言った、「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。
4:2 彼女はまた、その弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。
(旧約聖書 創世記 第4章1-2節)

○結婚して子供の誕生は、夫婦にとっても、家族にとっても嬉しく、楽しいものです。生まれる前から、男の子か、女の子か、名前は何にしようかと考えますね。
○さて、アダムとエヴァ夫婦にも子供が生まれ、成長します。旧約聖書の創世記4章1~2節に入りましょう。
(一)夫アダムは、その妻を知った。とあります。妻はみごもり、男の子を産みます。妻は苦痛の出産の際、思わず叫びます。私は主なる神によって、ひとりの人を得た。苦しい出産ですが、主なる神様への感謝と喜びが伝わって来ますね。イエス様も“女が子を産む場合には、その時が来たというので、不安を感じる。しかし、子を産んでしまえば、もはや苦しみを覚えてはいない。ひとりの人がこの世に生まれた、という喜びがあるためである。”(ヨハネ16:21)と言っています。
女性エヴァは、母となった時、私は主なる神によって、人を得たと喜びました。子供は、神様からのさずかりもので、自分の所有ではありませんね。“わが子を得た。”のではなく、“人を得た。”と言っていますね。「カイン」とは、「私は得た。」という意味です。
(二)さて、次にエヴァは、弟アベルを産みました。「アベル」の意味は「はかないもの」という意味です。弟アベルの生涯ははかなく消える「水蒸気」のような一生でしたネ。アダムとエヴァ夫婦には、他にもたくさんの子供たちが産まれます。アダムは九百三十年の生涯でした。アダムは、息子・娘たちを生んだ。とあります。この四章は、中心的なカインとアベル兄弟を取りあげているのです。
(三)最後に、兄弟二人の成長を見ましょう。“アベルは、羊を飼う者となり、カインは、土を耕す者となった。”兄のカインは、父と同じ土を耕す農業を営みます。長男は、父親の家業を継ぎますね。弟アベルは、羊や山羊を飼う、牧畜業を営むことになります。両方の職業は、人として立派な仕事です。世の始めから、職業に、良い職業とか悪い職業とかというものはありません。「働く」とは「人が動く」と書きます。人が動くことによって、ハタを楽にするから、「働く」と言った人がいます。
私達は、この世に生まれ、親兄弟のもとで育って、一人前の労働者となっていくのですね。その事を神様は、私達に望んでいるのです。

 


第二十一回 失楽園              2011年11月6日  

3:22 主なる神は言われた、「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
3:23 そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。
3:24 神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。
(旧約聖書 創世記 第3章22-24節)

○ダンテの『神曲』という作品の中にある”失楽園”は、有名です。私達も、アダムとエヴァ夫妻が、頭をさげながら、エデンの楽園を出てゆく絵などを見たこともあるでしょう。旧約聖書の創世記三章の続きです。まず、聖書を読みます。
○主なる神は言われます。”見よ、人は我々のひとりのようになり、善悪を知る者となった。人は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない。” そこで、主なる神は、人をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は、人を追放し、エデンの園の東に、ケルビムと回る炎の剣とを置いて、命の木の道を守らせられた。”
○私達にとっての失楽園とは何でしょうか。
(一)それは、まず永久に生きることを失ったという事でしょう。すなわち、すべての人は、「死ぬべきもの」となったのです。人はなぜ死ぬのか。年を取るから死ぬのでもない。病気で死ぬわけでもない。人は、罪を犯し堕落したために、死ぬものとなったのです。
○ですから「死」は、私達にとっ自然なものではないのです。死は、私達人間にとっては不自然のものなのです。だから、死は恐怖なのです。死は、罪の報酬として与えられるからです。”罪の報酬は死である。しかし、神の賜物は、私達の主キリスト・イエスにある永遠の生命である。”
(二)次に、失楽園は、自分が造られた土を耕す労働者になる事です。土を耕す労働を通して、自分たちがいかに脆く、傷つきやすく、弱く、崩れてゆく「土の器」であるかを確認してゆく作業となります。ヨブは謡いました。「人は神の前に正しくあり得ようか…泥の家に住む者、ちりを基(もとい)とする者、しみのようにつぶされる者」(ヨブ4:17、19)
(三)最後に、失楽園は、再び命の木の道に至る道ではないでしょうか。
○私達にとっての命の木の道、それは、神様がこの世に遣わした、神の子キリストの十字架の木ではなかったでしょうか。私達は、この十字架の木に、かかられて私達の罪の身代わりとなって血を流して死なれ、三日目によみがえり、神の右に座られたイエスを通して、再び永遠の生命に至るのです。イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、生命(いのち)である。誰でも私によらないでは、父のみもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)


第二十回 皮の洋服を              2011年10月30日  

3:20 さて、人はその妻の名をエバと名づけた。彼女がすべて生きた者の母だからである。
3:21 主なる神は人とその妻とのために皮の着物を造って、彼らに着せられた。
(旧約聖書 創世記 第3章20-21節)

○今から65年前、戦後の貧しい時代。皮の洋服を着ている人はいませんでした。内側に毛があった皮のジャンパーは、男性にとってあこがれでした。しかし、今は女性たちも毛皮のコートを着る時代になりましたね。
○さて、旧約聖書の創世記には、“主なる神様が、アダム(人)とその妻のために皮の着物を作って、彼らに着せられた。”(創世記3:21)と書いてあります。
○罪を犯して堕落したアダムとエヴァでしたね。裸であることを恥ずかしくなって、二人はいちじくの葉で、腰に巻きました。すぐに枯れてしまい役に立たなかったでしょう。気候も変化し、寒さも感じたでしょうね。震える二人を、神様はかわいそうに思われたのでしょうか。動物をほふります。動物の血が流されました。その動物の皮で、洋服を作り、二人の裸を覆い、着せられたのです。二人は嬉しかったでしょう。全身が暖かかったでしょう。何よりも全身の裸の恥が、償われ覆われたことは、神様に感謝したでしょうね。自分で作った「腰巻き」ではなく、神が作ったガウンです‼
○ここに私達の罪による恥が赦され、おおわれる条件が三つあります。
(一)まず、私達の罪の償いと赦しは、神様の賜物でなければならない。犠牲の動物を用意したのは、主なる神様でした。私達の救い主イエス・キリストは、“世の罪を取り除く神の子羊”として、この世に来て下さいました。“神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。(ヨハネ3:16)
(二)次に、私達の罪の償いと赦しは、血が流されなければならないのです。「血を流すことなしには、罪に赦しはない」のです。私達の罪の汚れと恥は、善行や修行によって注がれ、覆われることはないのです。主イエスは、十字架の死を前に、最後の晩餐の席で言いました。“皆、この杯から飲め、この杯は私の血による新しい契約の血である。多くの人々の罪の赦しのための流されるものです。”と。
(三)そして第三に、私達の罪の償いと赦しのためには、身代りとなるものは死ななければなりませんでした。神の子羊であられたイエス様は、十字架の上で、私達の罪の身代りとなって死んで下さいました。
聖書のことばです。
「神は、罪を知らない方(イエス)を、私たちの代りに罪とされました。それは、私たちが、この方イエスによって、神の義となるためです。」(Ⅱコリント5:21)




第十九回 労働の苦しみ              2011年10月23日  

3:17 更に人に言われた、「あなたが妻の言葉を聞いて、食べるなと、わたしが命じた木から取って食べたので、/地はあなたのためにのろわれ、/あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。
3:18 地はあなたのために、いばらとあざみとを生じ、/あなたは野の草を食べるであろう。 3:19 あなたは顔に汗してパンを食べ、ついに土に帰る、/あなたは土から取られたのだから。あなたは、ちりだから、ちりに帰る」。(旧約聖書 創世記 第3章17-19節)

○「産みの苦しみ」が、女性が刈り取った苦しみでした。一方、男性の苦しみは、「労働の苦しみ」でした。創世記の続きです。三章十七節からです。
(一)さらに、神は人に言われた。「あなたは妻の言葉を聞いて、食べるなと、私が命じた木から取って食べたので、地はあなたのために呪われ、あなたは一生、苦しんで地から食物を取る。地はあなたのために“いばらとあざみとを生じ”と書かれています。土地は、呪われてしまいました。自然環境は人間の罪のために変化します。自然も土地も、破壊されていく事になります。土地は、私達が少しでも手を抜きますと、“いばらやあざみ”という雑草が、ニョキニョキとはえて来るでしょう。
人間関係等むずかしさが職場にはありますね。職場で働く辛さや問題、そうした「雑草」を取り除きながら、私達は、労働をしていくのです。そして一生、苦しみながら、地から食物をとるのです。一生食うために苦しい労働をしていく事になります。それが、“男の生きる道だよ。”と神様は、おっしゃっているのです。それはまさに、罪を犯した男の償いの道なのかもしれませんね。
(二)そして次に男は、“顔に汗してパンを食べ”ついに土に帰る。“あなたは土から取られたのだから、あなたはチリだから、チリに帰る。”と言われているのです。男の一生は何と淋しいでしょうか。何と空しいでしょう。顔に汗をかき、額や顔をぬぐいながら、食物を得るのです。塩味のついたパンを食べながら、死んでいくのです。苦しい労働の果ての報いが死なのですか。
○人間は食って飲んで死んでいくために生まれたのですか。
○そんな事はありません。神様は私達を、ご自分の造られた世界に、男性を労働者として置かれました。神様の造られた世界を、神様にかわって管理していく使命が与えられました。
○しかし、男性は、高慢になり、罪を犯して、管理者の立場を脱ぎ捨てました。この世界とこの地の所有者となろうとしたのです。すなわち、神のようになろうとしました。人間の高ぶりは、結果的に、神様から離れ、神様なしの人生となっていくのです。それが、苦しい労働となりました。私達の労働は、飲み食いに消え、身につけるものに消え、建物に消えていくのです。しかし、神様と結びつく人生は、苦しみの労働の中にも救いを見いだすのです。


第十八回 産みの苦しみ              2011年10月16日  

3:16 つぎに女に言われた、「わたしはあなたの産みの苦しみを大いに増す。あなたは苦しんで子を産む。それでもなお、あなたは夫を慕い、彼はあなたを治めるであろう」。(旧約聖書 創世記第3章16節)

○神様のいうことも聞かず、ある意味では夫から聞いていたのにもかかわらず、夫にも聞き従いませんでした。そして悪魔の言うことに聞き従い、罪を犯して堕落してしまいました。誰でしたか。女性であり妻であったエヴァですね。
○罪を犯せば、罰が与えられます。今日は、女性に与えられた罰について、考えましょう。
(一)まず、”産みの苦しみを大いに増す”という事です。女性には、男性にない特有の出産のための苦しみがありますね。出産準備となります。生理が始まることも産みの苦しみではないでしょうか。十代から始まりますね。毎月訪れる生理痛や、生理に伴うゆううつさは、産みの苦しみでしょうか。生理が終わってからの、更年期も、産みの苦しみの一つでしょうかね。
(二)さらに、産みの苦しみは、”苦しんで子を産む”という時に、最高潮に達するのでしょうか。何十時間も苦しみ続け、激しい痛みに耐え、多くの出血をしながら(まさに命を削りながらです。)我が子を産むのです。私の同窓の奥様は、三番目の赤ちゃんを産む時、自分の生命と引き替えに、女の子を出産しました。
(三)そして、産みの苦しみは、出産後も続くのです。”あなたは夫を慕う、しかし、夫はあなたを治める。”
○夫との関係の中で、子供を育てる苦しみです。子どもの事で、夫に相談したり、、頼ろうとするのです。しかし、夫は冷たく、ワンマンに振る舞うのです。”仕事で疲れてるんだよ。子供はおまえの責任だろ。”妻や子供が、いないように生きる夫。それでも夫を恋い慕う女性の人生です。
○「神様なんか、私の人生には必要ないのよ。」と高ぶった女性が、刈り取る人生、それが「産みの苦しみ」の人生です。でも、あわれみ深い神様は、「産みの苦しみ」の女性の人生に、救いの道を用意してくださいました。聖書の言葉です。
”女は惑わされて、過ちを犯した。しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。”(第一テモテ2章14~15節)




第十七回 刑罰と福音              2011年10月9日  

主なる神はへびに言われた、「おまえは、この事を、したので、すべての家畜、野のすべての獣のうち、最ものろわれる。おまえは腹で、這いあるき、一生、ちりを食べるであろう。
わたしは恨みをおく、おまえと女とのあいだに、おまえのすえと女のすえとの間に。彼はおまえのかしらを砕き、おまえは彼のかかとを砕くであろう」。 (旧約聖書 創世記 第3章14-15節)


○罪を犯せば、刑罰が与えられるでしょう。罪を犯させた者にも、当然、刑罰が与えられました。
○旧約聖書の創世記の続きです。今日は、人間をだまして罪を犯させた蛇(悪魔)に対する刑罰と、イエス・キリストの原福音と言われる素晴らしい約束を見ることにします。
○前にも言いましたように、この蛇とは、動物の蛇ではないようです。聖書では、堕落した天使”悪魔であり、サタンである龍、すなわち年を経た蛇”の事ですね。
○ですから、女性を誘惑し、だました悪魔(サタン)は、光の天使に偽装していた様です。「明けの明星」のように光り輝く。変装した天使を目の前に女性は、コロリとだまされました。そして、悪魔は呪われ、主なる神の大型の杭を打ち込まれる事になります。それが創世記3章15節の神の言葉です。”私は恨みを置く、サタンと女との間に。サタン、お前と女とはかたき同士になる。お前の子供達と女の子孫(この子孫は単数)も同じだ。彼は、お前の頭を踏み砕く、お前は彼のかかとにかみついて傷を負わせるだけだ。”
○女の子孫から、生まれてくる”彼”とは一体誰でしょうか。私達を誘惑してだました悪魔サタンに鉄つい(大型のハンマー)をくだすのは誰でしょう。そして、悪魔サタンの頭を粉々に砕くのは誰でしょうか。悪魔に勝利する彼とは誰でしょうか。
○それは、処女マリヤから生まれてくる、生ける神の子、救い主イエス・キリストです。
○罪のない神の独り子、イエス・キリストが、私たちの罪の身代わりとして十字架の刑罰を受ける。この事をやめさせようと、悪魔は必死になり、そのかかとにかみつき、傷つけて、十字架への道を歩かせないようにしました。
○天使である自分が、人間に使えるなんて耐えられません。罪を犯した人間が、再び神様のものになるなんていやです。人間には死の恐怖の奴隷で一生涯、すごしてもらいたい。
○しかし、神の子が十字架にかかって死ぬことは、悪魔にとっては致命的な出来事なのです。自分の頭に、十字架の杭が突き刺さることなのです。聖書の言葉です。
”神は、私たちの罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは私たちが彼(イエス)にあって神の義となるためなのである。”(Ⅱコリント5章21節)



第十六回 まわりのせいにする          2011年10月2日

3:11 神は言われた、「あなたが裸であるのを、だれが知らせたのか。食べるなと、命じておいた木から、あなたは取って食べたのか」。 3:12 人は答えた、「わたしと一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、わたしは食べたのです」。 3:13 そこで主なる神は女に言われた、「あなたは、なんということをしたのです」。女は答えた、「へびがわたしをだましたのです。それでわたしは食べました」。 (旧約聖書 創世記 第3章11-13節)

○鏡の前で、お化粧している女性の方が、なかなかうまくゆきません。とうとうがまんできなくなりました。”お母さん、この鏡へんよ。”という笑い話を聴いたことがあります。
○私たちは、自分の責任や罪を、他のものになすりつけたり、他の人のせいにしたりしますね。
○旧約聖書・創世記の続きです。罪を犯して、恥ずかしい姿を、隠した男女に、神様は尋ねました。”食べるなと命じておいた木から、どうしてあなたはとって食べたのか。” ”私と一緒にしてくださったあの女が、木から取ってくれたので、私は食べたのです。”
○夫アダムは、妻エバのせいにしているのです。自分の悪行を、”妻が、秘書が…”と、他の人になすりつけるのは、ここから始まった様ですね。
○しかも、あなたが一緒にしてくださった、”この女”と言っているのです。”神さま、あなたが私に与えてくださった、この女さえ、いなかったら、罪を犯さなかったんですよ。”と、とうとう、神さまのせいにしているのです。
○しかも、”この女”は何ですか。堕落前の男性アダムは、自分の身体の一部から助け手として造られた女性エバを見たときなんと言いましたか。
○”私の骨の骨、私の肉の肉、男(イッシュ)から取った者だから、女(イッシャー)と名付けよう。””私の助け手にふさわしい。私の半身だ(ベターハーフ)だ。私にぴったりだ。”と喜んだのです。
○それが、罪を犯して堕落した今、”この女”と、赤の他人のような台詞です。
○この話から、夫は妻を自分の身体の一部の様に愛することができなくなりました。又、妻は、夫に従うことができなくなってしまったのです。
○さらに神様は女に言われました。”あなたは何という事をしたのです。””蛇ですよ、蛇がいけないんですよ。私はただだまされただけよ。”揃いもそろって、女性は、蛇のせいにしています。
○さて、私達も、人のせいにしたり、まわりのせいにしている間は、問題の解決にはなりません。
○自分の罪と過ちを、素直に認め、「ごめんなさい」という心から、問題の解決は始まります。天の神様に「ごめんなさい」、まわりの人に「ごめんなさい」という心を与えてくださいます様に。

 



第十五回 隠れる人生                    2011年9月25日

すると、ふたりの目が開け、自分たちの裸であることがわかったので、いちじくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。 彼らは、日の涼しい風の吹くころ、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは主なる神の顔を避けて、園の木の間に身を隠した。主なる神は人に呼びかけて言われた、「あなたはどこにいるのか」。彼は答えた、「園の中であなたの歩まれる音を聞き、わたしは裸だったので、恐れて身を隠したのです」。(旧約聖書 創世記 第3章7-10節)

○子どもの頃、隠れんぼした事があります。昔は隠れるところがたくさんありました。隠れんぼは、見つけてもらうところに楽しさがあります。私達人間は、子どもの頃から隠れること、隠すことが得意の様ですね。さて、創世記の続きです。
○神様の言葉を疑い、悪魔の誘惑に敗北した、男女はどうなりましたか。
(一)まず、自分の身の恥を隠しました。ふたりの目が開かれ、自分たちの裸であることがわかったので、いちぢくの葉をつづり合わせて、腰に巻いた。(同3章7節)ほんとは全身を隠したいほど、”恥ずかしかったでしょう。”「裸の王様」である自分たちを発見して、恥ずかしさを隠したい。私達は、まず、身体の恥ずかしさを隠したいですね。頭の髪から、足のつま先まで、身体の恥を隠したいのです。
(二)次に、悪いことをするので、私達は隠れたいのです。”二人は、涼しい風の吹く頃、園の中に主なる神の歩まれる音を聞いた。そこで、人とその妻とは、、主なる神の顔を避けて、園の木の間に、身を隠した。”(同3章8節)
○悪いことをすると、私達は親の顔を見たくなくて、隠れてしまいますね。父は、私が悪いことをして、逃げようとすると、必ずうしろから大声で言いました。”逃げ切れるか。
○私たちは、主なる神様の前から逃げ切れません。まして、隠れることも、隠すこともできません。しかし、私達は、隠れる人生、隠す人生を送ってしまうのです。
○私は、友達を家まで連れて行くのがいやでした。それは、母が目が不自由で何もできなかったからです。私は、自分の母を隠す人生でした。
○しかし、そのような、自分の容姿を隠し、自分の家族を隠したがる私たちに、主なる神は呼びかけてくださいました。”あなたはどこにいるのか。”
○私達は隠れ、隠す人生です。しかし、主なる神は、そのような私達を知っていながら、”あなたはどこにいるのか”と探し求めてくださるのです。それは、私たちをいてはならない場所から、立ち帰らせるためなのです。主イエス・キリストは、そのために、この世に来られたのです。キリストのことばです。”人の子(キリスト)がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである。(ルカの福音書19章10節)


第十四回 食べるによく                   2011年9月18日

そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(旧約聖書 創世記 第3章6-7節)

○女性エヴァは、悪魔の誘惑をうけました。神様の言葉を疑いました。神様への不信が、心に広がったのです。さらに、果物を食べて死ぬなんて嘘だ。神様は意地悪だと、ハッキリ断定されると、言われてみれば、そう思えて来たのです。今日は、誘惑の結果です。旧約聖書創世記三章の続きです。
(一)まず、女性エヴァは”その木を見た”のです。悪魔の誘惑は、私たちを見るだけの人生へかり立てるのです。見えるだけが、すべてになるのです。絶対になってゆくのです。見えないものに目を注ぐことができなくなるのです。聞く耳を持たなくなるのです。聞く耳がなければ、信仰も生まれないのです。”信仰は、聞く事から始まる”と聖書は言っていますね。
○音声のでない、画像だけのテレビを見ているような人生なのです。内容のない、中身のわからない薄っぺらな人生です。
(二)次に、女性が木を見ると、その実は、「食べるに良く」思われました。次に、悪魔の誘惑は、私たちを「パンだけ」の人生へとかり立てるのです。食べて、飲んで、ねる。仕事も食べるために働く、そして死んでゆくのです。それはちょっと、人間として空しい。私たちは、パンだけでは活きてゆけない存在です。イエスは言われました。”人はパンだけで生きるものではなく、神の言葉によって生きる者である”(マタイ四:四)
(三)さらに、女性は「目には美しく」思われたのです。美しいという文字は羊の下に大と書きます。文字の原意は大きな羊を神様にささげることから派生した言葉です。神様にささげる美しさを、女性エヴァは、自分の目に、ささげてしまいます。まさに、「目の欲」、自分の美だけを追求するようになってゆくのです。
○最後に、女性エヴァは、「賢くなるには好ましく思えた。」とあります。あれを食べたら、あれを飲んだら美しくなれるワ、それだけじゃない、何でもよくわかって、人よりも賢くなれるのネ。と思えてきたのです。矢も盾もたまらなくなり、とうとう木の実をもいで、食べてしまいました。そしてそばにいた夫アダムにも、分けてやり、一緒に食べたのです。
○この時から、夫と妻は、逆転したようです。夫は妻に従うようになり、妻は夫に従わなくなったようですね。
○ですから聖書はこう勧めます。”妻よ、夫に従いなさい。…夫よ、妻を愛しなさい”と。(エペソ人への手紙五章)



第十三回 堕落の原因                   2011年9月11日

さて、神である【主】が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。蛇は女に言った。「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」女は蛇に言った。「私たちは、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と仰せになりました。」そこで、蛇は女に言った。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」 こで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた。 このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。(旧約聖書 創世記 第3章1-5節)

○今日から創世記の三章に入ります。一章~二章は、「天地万物の創造」、「人間の創造」そして結婚の制定が描かれていました。しかし、この三章からは、人間の堕落が描かれています。
○まずは、人間の「堕落の原因」を観察したいのです。置かれた物が、落ちるには、必ず原因がありますね。
○さて、突然、最も悪がしこくてずるい「蛇」が登場して来ます。この「蛇」は動物の蛇ではありません。聖書では、「悪魔」とか、「サタン」と呼ばれ、全世界を惑わす霊的な存在です(黙示録十二:九)。堕落した天使のボスと言って良いでしょうか。天使ですから、「光の天使に偽装する」ことだってできるでしょう。
○その「光り輝く」天使に偽装した、悪がしこくてずるい悪魔が、女性のエヴァに近づいたのです。そう言えば、女性は、”光るもの”に弱いところってありますよね。
○惑わしの声はこうでした。”園にあるどの木からもとって食べるなと、ほんとうに”神は言われたのですか。”悪魔の誘惑の第一は、私たちに疑い【点を打って強調】を持たせる事ですね。”ほんとうにその通りなんですかね?いえね。ほかでもない、園の果物はどれも食べちゃいけないって話ですよ。なんでも神様は、これっぽっちも食べちゃいけないと言ったっていうじゃないですか。”
○女性エヴァは、あわてて答えました。”そんなことないわ。食べるのはちっともかまわないのよ。ただね。園の中央にある木の実だけは、食べちゃいけないの。そればかりか、さわってもいけないの。さもないと、死んでしまうって、神様はおっしゃったわ。”
○さて、狡猾な悪魔の第二番目の声は断定的【点を打って強調】でした。”あなた方は決して死ぬことはない。そいつは嘘っぱちですよ。死ぬだなんて、でたらめもいいところだ。神様も意地が悪くてケチだね。その実を食べたら、善と悪の見わけがつき、神様のようになってなっちまうもんだから、脅しをかけてるんだ。”
○私たちの「罪の堕落」と「死」とは、私たちより巧妙で、悪賢くて、力のある天的な悪魔から来たものです。それだけに、私たち人間は、自分の知恵や力では、解決できない深刻さを持っているんですね。私たちの「罪の堕落」と「死からの救出」は、堕落天使悪魔よりも、力のある天の神様から来るものです。聖書の言葉です。”イエスもまた同様に、血と肉を備えておられる。それは死の力を持つ者、すなわち悪魔を、ご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷となっている者たちを、解き放つためである。”(ヘブル人への手紙2章14~15節)


第十二回 人は、父と母を離れて          2011年9月4日

それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び会い、二人は一体となるのである。(旧約聖書 創世記 第2章24節)

○結婚の問題の一つに、人(男性)が、その父と母を離れるという現実的なむずかしさがある様です。いわゆる親離れ、子離れという課題でしょう。
○ですから、聖書の創世記二章二十四節で、こう言っています。”それで、人はその父と母を離れて、妻と結び合い、一体となるのである。”結婚とは”妻と結び合う”事ですが、その前に”人は、その父と母を離れる”という作業をしなくてはなりません。
○”父と母を離れる”とは、文字通り、距離的にも離れて生活する事です。また、経済的にも、精神的にも、親元から独立してゆく事です。そうでなければ、”妻と結び会う”ことはできませんね。
○両親とは、赤子の頃から、結婚するまである人は二十年、ある人は三十年と一緒に生活してきました。
ところが結婚相手とは、突然目の前に現れます。そして一緒に生活を始めるわけです。それまでの長い両親との関係から、新しい家族を造る事になります。女性は夫である男性と、男性は妻である女性と結びついてゆく作業をしていくわけです。
○そのためには”人は、その父と母を離れる”作業を、特に男性は、心得なくてはならないのです。ところが、現代は”親離れ”よりも”子離れ”させたくない親が多いという所に問題がある様です。子供が少ないという時代の背景も手伝っているかもしれません。子離れできない親に育てられた子供は、両親からの親離れはできないでしょう。
親離れできなければ、たとえ結婚したとしても、自分たちの家庭に、親が介入してくる事になります。親が介入する結婚生活は、妻や、夫と結びつく事はできないでしょう。
○”結婚”とは、妻と夫が深く、肉体的にも精神的にも結びつく作業なのです。ですから、そこに、たとい両親でありましても、介入させてはならないのです。「二人は一体となるのである」(直訳:一つの肉になる)。
○優先順位としては、自分たちの家庭が第一です。親の意見は聞いても、決定は自分たち二人が行ってゆく。これが大事なのです。天の神様が願っている事、喜ぶ事なのです。これが、家族の秩序となり、平和となるのです。



第十一回 あばら骨から                    2011年8月28日

そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。すると人は言った。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」(旧約聖書 創世記 第2章21-23節)

あばら骨〇 男性は、土のチリから、主なる神様によって造られました。しかし、ふさわしい助け手としての女性は、男性の身体の一部、「あばら骨」から造られました。まさに男性と女性は、はじめから一つの身体、一つの心だったことになります。ですから、男女が互いに惹かれるという事は、本質的なんですね。ですから、結婚によってのみ男女が一心一体になることは、神様の定めた法則なのです。
〇 男性は、自分のあばら骨が、自分の胸に帰ってきて欲しいのです。自分の助けとなり、支えになって欲しいのです。そうでないと、あばら骨の一本がないので淋しいのです。逆に、女性は、自分の元いた居場所に戻りたいのです。その胸に抱かれて 、安心と喜びを味わいたいのです。それで、女性が男性の胸のあばら骨から造られたのが理解されるでしょう。
〇 ユダヤ教のある教師は、この聖書の箇所を、このように解説しました。「女性の造られたのがなぜ頭の骨ではないのか。それは、男を支配しないためである。なぜ足の骨ではないのか。それは、男性に踏みつけられないためである。あばら骨から造られたのは、女性が男性に守られ、支えられ、胸近くにはぐくまれるためである。」
〇 「なるほど」と納得させられますね。しかし、現実の男性は、妻や恋人に対して、どんな振る舞いをしていますか。「この女性こそ、私の身体の一部、私自身だと愛し、いつくしんでいますか? また女性は、夫や恋人に、どのように振る舞っていますか。
〇 太すぎる骨で、心の中がギスギス、ゴツゴツしている場合がありますね。逆に細すぎる骨で、心の中を冷たい風が吹き抜ける場合がありますね。

〇 聖書のことばです。「妻たる者よ、夫に仕えなさい。夫たる者よ、妻を愛しなさい。辛くあたってはいけない。」(新約聖書 コロサイ人への手紙 第3章18-19節)




第十回 ふさわしい助け手 
                2011年8月21日

その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」神である主が、土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が、生き物につける名は、みな、それが、その名となった。こうして人は、すべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけたが、人にはふさわしい助け手が、見あたらなかった。(創世記 第2章18節~20節)

おしどり夫婦〇 釣り合いが取れてぴったりとしている夫婦を、昔から「鍋ぶたにとじぶた」と言います。お互いが、無くてはならない存在であり、お互いが助け合って生活する、これを聖書では、「ふさわしい助け手」と言うのです。
〇 創世記の続きです。はじめに上記の聖書のことばを味わってみましょう。「主なる神は言われた。『人がひとりでいるのは良くない。彼のために、ふさわしい助け手を造ろう。』」(創世記 第2章18節)エデンの楽園に置かれた、最初の人アダムは、一人でした。一人で働く労働者だったのです。周囲には、動物や鳥、そして家畜もいました。仕事から帰って来ると、「ワン、ワン」「ニャオーッ」「コケコッコー」と迎えてくれました。鳥や動物だって、私たちに慰めとなりますね。しかし、アダムにとってふさわしい助け手とはなりませんでした。
〇 「人が一人でいるのは良くない」とは、一人でいることが善であるとか、悪であるとかという意味ではありません。あくまでも、「ふさわしくない」という意味です。何か欠けている、何か物足らない、何か釣り合いが取れていないという意味でしょう。鍋があるのに、閉じてくれるフタがないのと同じことでしょうか。あるいは、フタがあるのに鍋がないのです。煮物をしている時も、煮物をしていない時も、鍋にはフタが必要なのです。
〇 エデンの楽園で労働し、休息するアダム(男性)には、ふさわしい助け手が必要でした。男女の結婚の目的について、前にもお話ししました。今日の箇所には、結婚の大切な目的が書かれていました。それは、結婚とは、お互いが助け合いをする、ということですね。「仕事」の助け手となる、家事や育児の助け手となることです。自分の幸せのための結婚ではないようですね。
〇 私は、結婚をする若い男女に、三つの愛を勧めます。「ゆるし合い」、「ゆずり合い」、そして「助け合い」です。この三つの愛を心がける結婚生活の中心に、主なる愛の神が共にいてくださるでしょう。聖書のことばです。「あなた方は、神に愛されている者であるから、互いに忍び合い、もし互いに責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなた方をゆるして下さったからである。」(新約聖書 コロサイ人への手紙 第3章12~13節)




第九回 エデンの楽園   
            2011年8月14日  

神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。神である主は、その土地から、見るからに好ましく、食べるのに良い、すべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金があった。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもある。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れる。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」(旧約聖書 創世記 2章8~17節)


エデンの園○「楽園」とは「パラダイス」のことです。王様が、お姫様と一緒に散歩する美しい庭園をパラダイスと呼ぶ様にです。創世記第2章には、エデンの東にある楽園を、主なる神様と友に歩く、アダム(人)が描かれています。主なる神様は、人を連れて行って、エデンの楽園に置きました。
① まず、エデンの楽園には、見て美しい、食べるに良いすべての果樹がありました。楽園の中央には、生命の木と、善悪を知る木とがはえていました。
② さらに、一つの河がエデンの楽園から流れ出て、楽園を潤し、そこから分かれて四つの河となっていました。その中の一つの河の名は、ユーフラテス川でした。ここから、エデンの楽園は、中東に存在したと言われています。
③ そして、主なる神様は、人間アダムにエデンの楽園を耕させ、守るようにされました。人間アダムはエデンの楽園で遊び暮らしてはいませんでした。人は、初めから土地を耕す農夫、すなわち労働者でした。家畜もいましたから、牧畜業も営んでいました。四つの河がありましたので、漁業も営む漁師だったでしょうね。
○ 私たち人間の本質は、働く者でした。ですから、働くことが出来る状態なのに、働くことが出来ないというのは、人間としてとても辛いのです。働くだけでなく、神様に委ねられ、任せられたこの世界を、守り、管理できないとしたら、これほど人間として、生き甲斐のないことはないのです。私たちは、創造と摂理の神様のかたちに造られているからです。ですから、私たちには物を造り出す創造的欲求、管理して治める支配的欲求がありますよね。それらが正しく用いられると、とても満足しますね。
④ そして、主なる神様は、人間(アダム)に命じます。「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよい。しかし、善悪を知る木から取って食べてはならない。それを取って食べると、必ず死ぬ。(2章16節参照) 人間アダムは、エデンの楽園では、九十九%自由でした。しかし、1%の禁止が命じられたのです。
○ 「心のままに」と、私たちは、神様から自由意志を与えられていたのです。知性と感性と、そして自由意志です。罪を犯す自由も、罪を犯さない自由も、私たちは与えられている存在なのです。素晴らしいですね。




第八回 天地創造の歴史             2011年8月7日

これは天と地が創造されたときの経緯(歴史)である。神である主が地と天を造られたとき、神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。(創世記 2章4節,7節)

稲毛 教会○ 創世記1章は、天地創造の歴史を、宇宙船に乗って天空高いところから観察しました。この創世記2章4節からは、地上に降り立って、森の中に分け入って、天地創造の歴史を観察することにしましょう。ここには、神のかたち(イメージ)に創造された人(男性)の材料と、生命の始まりが描かれています。私たち人間の素材は、土のちりです。他の聖書翻訳では、「粘土」と言っています。
○ 私には先祖の墓を掘り起こした経験がありますが、ひつぎの中には、ホコリのような、チリのようなものだけが残っていました。
○ しばしば文学作品の中で、私たち人間を「土の器」と表現します。弱くてもろい存在であることを現わしています。聖書でもこう言っています。「私たちは、この宝を土の器の中に持っている。」 (コリント人への手紙第二4:7)土のようにもろい器ですが、そんな地のチリあくたのような私たちの中に、イエス・キリストという宝を持っていると、聖書の記者は言っているのです。
○ もうひとつ大事なことは、私たちの生命の始まりは、神様から来たということです。「主なる神は、土のちりで人を造り、命の息をその鼻に吹き入れられた。そこで人は生きた者となった。」と創世記にあります。
○ よく人が亡くなる際に、「息を引き取る」という表現を使います。息を引き取るのは、お医者さんでも、自分自身でもありません。私たちの生命の息を引き取るのは、生命の息を吹き込んだ、主なる神様です。私たちが死ぬのも生きるのも、主なる神様が支配しておられるということなのです。
○ 私たちの生命の始まりはどこからですか? この質問は、私たちの人生と生涯を決定するのです。私たちは単細胞から進化したのではありません。まして、猿から進化したのでもありません。私たちの生命の始まりは、初めの人(アダム)です。主なる神様によって造られ、生命の息を吹き込まれ、生きた者となったのです。私たちの大先祖様はアダムだと分かって、嬉しかったですね。


第7回 第七日目の休息                   2011年7月31日

創世記2章1~3節 「こうして天と地と、その万象とが完成した。神は第七日にその作業を終えられた。すなわち、そのすべての作業を終って第七日に休まれた。神はその第七日を祝福してこれを聖別された。神がこの日に、そのすべての創造のわざを終って休まれたからである。」

稲毛 教会○ 一週間は、なぜ七日間なのか? そして、なぜ七日目は休日なのか? あまり考えないで生活してきました。カレンダーを見ますと、日曜日が一週間の最初に、赤い色で印刷されています。これもまた何故か、考えもしませんでした。
○ しかし、その答えは、旧約聖書の創世記第2章の始めにあります。次のような内容です。「こうして天と地と、全世界は完全にできあがりました。神様は第七日目にその作業を終えられると、仕事を休まれました。そしてこの七日目を、神様は祝福して、聖別されました。この七日目に、天地創造の働きが完了し、休まれたからです。」 (創世記2章1-3節)
① 神様は六日間働いて、すべての作業をしました。そして天地万物が完成したのです。神様が造ったすべてのものは、非の打ち所がありませんでした。そして、七日目は休息されたのです。これを聖書では、「主の安息日」 と呼んでいるのです。
② 神様は、この安息日を祝福の日として、他の週日の六日間とは区別しておられるということがわかりますね。「神は、その七日目を祝福して、これを聖別された。」 聖別とは、他の日とは特別に区別された、という意味です。
③ ですから、神様のかたちに創造された私たちも、同じように六日間、自分のすべての働きをするのです。人は、神様と同じ、創造的欲求を持ちながら労働する者ですね。そして、七日目は休息するのです。休息は、身体は勿論ですが、心も休息するのです。
○ ところで、休息するためには、誰かが働いてくださらないと、休むことはできませんね。実は、この主の安息日は、主イエス様が働いてくださる日なのです。イエス様は、七日目の安息日に病気の人たちを治しました。人々は、「病人を治療するのは作業にあたる」 と、主イエス様を批難しました。その時、イエス様はおっしゃいました。「天の父は、今に至るまで働いておられる。だからわたしも働くのである。」 安息日にイエス様が、病める疲れた私たちのために働いてくださるのです。だから、私の身体も心も休息できるのです。この日は私たちにとって、祝福の日、喜びの日となるのです。日曜日の安息日、お近くのキリスト教会へ出かけてみてはいかがでしょうか?



第6回 神は男女を祝福された              2011年7月24日

神は彼らを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、地に満ちよ、地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」。(創世記 1章28節)
         
稲毛 教会○ 今日は初めに、結婚についての、哲学者ソクラテスの言葉を紹介しましょう。「君は、結婚するのが良いか、あるいは結婚しない方が良いか。いずれにせよ、君は後悔するだろう。」 悪妻を持った哲学者ソクラテスの意味深い言葉ですね。
○ では、創世記1章28節の言葉から、男と女の結婚についてお話しします。次のような言葉です。「神は、(男と女を)祝福して言われた。生めよ。増えよ。地に満ちよ。地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ。」
○ まず、男女の結婚は、神様が定めて、祝福してくださった制度です。人間がつくった制度でも、まして社会や国家が定めた制度ではありません。創造の神、摂理の神様が立てた制度で、神様が二人の男女を祝福してくださったのです。しかし、神様に祝福された男女の結婚が、後悔したり、悲惨になるのは、どうしてでしょうね。
○ 次に、結婚の目的が書かれていました。ひとつは、出産と子育てですね。「生めよ。増えよ。地に満ちよ。」 出産は苦しいし、子どもを育てるのはもっと大変です。ですから、結婚しても子どもは産まない、自分たちの互いの人生を楽しもうというカップルもいますね。しかし四十代頃になって、やっぱり子どもが欲しいと願っても、授からないで悩む夫婦もおられます。神様が、男女を逢わせて結婚させる目的は、出産と子育てです。
○ 結婚のもう一つの目的は、男と女が協力して、この地を治め、管理するという労働です。神様は男と女に、「地を従わせよ」 と言っておられます。ですから、結婚は、お互いの幸せのためにだけあるのではありません。私たちは神様に代わって、この地球全体を治め、管理する労働者なのです。すべての生物と共に生きてゆく、そして管理してゆく、そのことが結果として、結婚の幸せにつながるのです。
○ 子を産み育てることも、男女の労働です。労働ですから、苦しいし、疲れます。牧畜や漁業、そして農業も労働です。多種多様な働きも、現代では労働です。世界は神のもの。私たちの結婚は、神の秩序に従って営んでゆきたいのです。

 



第5回 男と女とに                    2011年7月17日

○ 「創造の冠」 と言われる、男と女について、創世記1章から続けて見てゆきましょう。まず創世記1:27です。「神は、自分のかたちに人を創造された。」 すなわち、「神のかたちに創造し、男と女とに創造された。」(同1:27)
稲毛 教会○ 男性と女性とは、全く同じように、神のかたちに造られているのです。この一点において、男性と女性とは、平等でしょう。では、「神のかたち」 とは、どのようなかたちでしょうか。どうも、目に見えるかたちではないようです。「かたち」 のヘブル語は 「裁断されたもの」 という意味です。
○ 聖書では、「神のかたち」 とは、「真の義と聖」(新約聖書 エペソ人への手紙4:24)と言っています。誠の正義と聖潔さを、男女は備えていたのです。次に、「神のかたち」 とは、「真の知識」 (新約聖書 コロサイ人への手紙3:10) です。男女には、まことの 「知性」 が刻み込まれています。ですから、「神のかたち」 とは、「知性」 と 「道徳性」 と 「意志」 と言って良いでしょうか。人間の心とは、「知・情・意」 の三つの領域で構成されているようですね。
○ 男性と女性が、他の動植物とは違って、神のかたちに造られたということは、何と素晴らしいことでしょう。そこには、男女の区別や差別はないのです。他人と自分を比べる必要は無くなります。創造者である神様の前に、みな、平等なのです。尊く、価値ある者なのです。
○ 男も女も、独身者も既婚者も、老いも若きもです。多種多様な民族があってもです。みんな、神のかたちを宿し、神様のすばらしさを現わすように、この世に生まれたのです。
○ わたしのことを少しお話ししましょう。わたしが十七歳の高校生のときでした。友人が鉄道へ飛び込み自殺した事によって、人生への大いなる目覚めに突入しました。人はなぜ生きるのか、人生の目的は何か、目的地のない旅行をしているような、むなしさと寂しさを味わっていました。自分のこの世における存在価値もわかりませんでした。
○ そのような悩みの中で、聖書に出会い、キリストの教会へ行くようになりました。創世記の言葉を通して、わたしは神様のかたち(イメージ)を持って、神に造られた最高の作品であることを知らされました。わたしは失敗作ではない。造られたものは、すべて造った者のために存在するのだと知りました。わたしは神様のために生きる決心をしたのです。18歳の春でした。
○ 聖書のことばです。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」 (旧約聖書 イザヤ書43章4節)

 


 

第4回 さあ、人間を造ろう             2011年7月10日

創世記 1:26「神はまた言われた、『われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り、これに海の魚と、空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう』」。

稲毛 教会○ 人間とは、何者なのでしょう? 動物や植物は、たくさんの種類が存在するのに、人間は男と女しかいません。様々な種類の人間がいれば、他人と自分を比べることはないのに、と思ったりもします。
○ 旧約聖書の創世記1章26節にはこう書いてあります。「神はまた言われた。『われわれの形に、われわれにかたどって人を造ろう。これに海の魚と空の鳥と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう。』」
○ この言葉を読んで、直感することは、わたしたち人間は、他の造られた動植物とは別だ、特別だ! ということです。
○ まず、第一に、わたしたち人間は、神の形に、神にかたどって造られた作品です。唯一の神が、「われわれ」と複数形で語っています。多くの聖書学者は、ここに三位一体の神様が、話し合って、わたしたちを造ったと考えます。父なる神様、「言葉(ことば)」である子なるイエス・キリスト、そして聖霊なる神様の談合です。もしそうだとすれば、わたしたち人間は、父なる神の父性、母なるキリストの母性、そして、聖霊なる神の潔さが、この世に生まれ落ちた時から、そなわり組み込まれていることになりますね。
○ 次に、わたしたち人間には、特別な使命が与えられているのです。三位一体の神様は、ご自分が造られた、この地球上のすべてを、わたしたちにお任せになったということです。わたしたちは、創造の神様に信頼されている存在です。地球船宇宙号を管理することのできる能力と知力と、知恵を持っているのです。神は言われた。「地と空と海のあらゆる生き物を治めさせよう。」
○ この地球のオーナー(所有者)は、創造の神様です。わたしたちは、管理者、スチュワード、スチュワーデスです。この地球は、わたしたちの所有ではないのです。
○ わたしたちは、この地上の生きとし生けるもののすべてと、共に生きてゆく、そして生かされてゆく存在なのです。自分たちの所有であるかのように、自分たちの勝手に、また、欲望のために乱獲、伐採してはならないのです。
「わたしたちの世界は神のものである。わたしたちのものでも、地上の権力者たちのものでも、悪魔や運命や、偶然のものではなく、全地は、主なる神のものである。」
○ この告白をわたしたちが始めるとき、神様に造られた人間の回復が起こるのではないでしょうか。

 


 

第3回 鶏が先か、卵が先か              2011年7月3日

創世記1:11-25  11. 神はまた言われた、「地は青草と、種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ果樹とを地の上にはえさせよ」。そのようになった。 12. 地は青草と、種類にしたがって種をもつ草と、種類にしたがって種のある実を結ぶ木とをはえさせた。神は見て、良しとされた。 13. 夕となり、また朝となった。第三日である。 14. 神はまた言われた、「天のおおぞらに光があって昼と夜とを分け、しるしのため、季節のため、日のため、年のためになり、 15. 天のおおぞらにあって地を照らす光となれ」。そのようになった。 16. 神は二つの大きな光を造り、大きい光に昼をつかさどらせ、小さい光に夜をつかさどらせ、また星を造られた。 17. 神はこれらを天のおおぞらに置いて地を照らさせ、 18. 昼と夜とをつかさどらせ、光とやみとを分けさせられた。神は見て、良しとされた。 19. 夕となり、また朝となった。第四日である。 20. 神はまた言われた、「水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ」。 21. 神は海の大いなる獣と、水に群がるすべての動く生き物とを、種類にしたがって創造し、また翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。神は見て、良しとされた。 22. 神はこれらを祝福して言われた、「生めよ、ふえよ、海の水に満ちよ、また鳥は地にふえよ」。 23. 夕となり、また朝となった。第五日である。 24. 神はまた言われた、「地は生き物を種類にしたがっていだせ。家畜と、這うものと、地の獣とを種類にしたがっていだせ」。そのようになった。 25. 神は地の獣を種類にしたがい、家畜を種類にしたがい、また地に這うすべての物を種類にしたがって造られた。神は見て、良しとされた。

稲毛 教会○ 「鶏が先か、卵が先か」、この事を考えますと、私の頭はウニのようになります。地下鉄の電車がどこから入るのか? よりも難しいのです。鶏が先ですと、鶏は卵からかえります。卵が先ですと、卵は鶏が産み落とします。
○ いま旧約聖書の創世記第1章を毎週連続でお話ししています。
1章20節から21節には、こう書いてあります。
「神はまた言われた、『水は生き物の群れで満ち、鳥は地の上、天のおおぞらを飛べ』。神は翼のあるすべての鳥を、種類にしたがって創造された。」 神の言である聖書によりますと、翼のあるすべての鳥は、種類に従って神様が創造されたのです。鶏が先です。
○ 私は子どもの時から、生命の誕生を、次のように教え込まれて来ました。ある時、海中で、突然生命体が誕生した。その生命体は長い年月をかけて分裂進化していった。そしてやがて、現在のような生物になった。下等なものから上等なものへと進化してきたというのです。
○ しかし、この下等のものから上等のものへと進化、発展するという自然の法則は、あり得ないことなのです。そのことを私は学生時代に知らされました。どういうことかと言いますと、「熱力学第二法則」、別名を 「エントロピーの法則」 と言われているものです。
○ この法則によると、エネルギーが加わり時間が経ちますと、物質や生命体は壊れてゆくのです。逆に発展・進化するようなことはありません。この宇宙の法則によれば、単細胞のような生命体から、鶏のような高等な生命に移行することは困難ですね。
○ 新車だって、新築の家だって、時間の流れの中で、中古車になり、中古物件となり、やがて壊れます。最高の生命体と言われる私たち人間も、やがてじっちゃまになり、ばっちゃまになり、壊れて死んでゆくのです。
○ 神様は、種類に従って、すべての動植物を造ってくださいました。鶏は鶏です。雀は雀です。カラスはカラスです。ですから、動植物は、比べることはできません。鶏は鶏であって、雀と比べることはできないのです。カボチャはカボチャです。大根と比べることはできません。
○ 実は、私たち人間も個性的に造られているのです。それなのに、どうして人と比べたり、同じゴールをめざして競争しなければならないのでしょうか。

 



第2回 はじめに言(ことば)があった      2011年6月26日

創世記1:3-10「3. 神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった。4. 神は光を見て良しとされた。神は光とやみとを区別された。5. 神は光を昼と名づけ、やみを夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。6. 神は仰せられた。『大空が水の真っただ中にあれ。水と水との間に区別があれ。』7. 神は大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別された。そのようになった。8. 神は大空を天と名づけられた。夕があり、朝があった。第二日。9. 神は仰せられた。『天の下の水が一所に集まれ。かわいた所が現れよ。』そのようになった。10. 神はかわいた所を地と名づけ、水の集まった所を海と名づけられた。神はそれを見て良しとされた。」

○ 「人間は考える一本の葦である。」 とパスカルは言いました。植物と人間の違いを、「考える」 という点で言っているでしょうか。あるいは、人間は言を使うという点で、動物との違いを言う事もできるでしょう。
○ 言(ことば)とは、誠に不思議な力を持っています。旧約聖書の創世記の2回目です。創世記1章の3節から5節には、神様は「言」(ことば)によって、天地万物をお造りになったと書いてあります。 「神は『光あれ』と言われた。すると光があった。神はその光を見て、良しとされた。(大いに満足し) 神は、その光と闇とを区別された。神は光を 『昼』、闇を 『夜』 と名づけられた。」 (同1:3~5 参照)
稲毛 教会○ 同じように、「ガス (水) は、上下に分かれ、空と海になれ」 と神様は、言を発しますと、水蒸気が大空と海に分かれます。「空の下の水は集まって海となり、乾いた地が現われよ。」 と神様が命じると、その通りになりました。(同1:6-10)
○ まさに神様は、言によって天地万物を創造されました。まさに、「無から有を」 呼び出されました。ヘブル語で神は 「エロヒーム」 と言います。意味は 「力ある方」 です。しかも複数形です。しかし動詞は単数形です。三位一体の神を暗示していると言われますね。
○ ところで、私達人間社会の営みに於いても、「言」 は大切なものであり、力がある事を知っています。ペンの力は、戦いの武器より力を持っています。歴史を変え、国家体制を変え、私達の人生を変えて来ました。
○ 「言」 は、人を生かす事も殺す事もできる力を持っています。言は、私達の人格を形成し、一人の人間として成長させてくれます。人々を慰め励ます力を持っています。
○ また 「言」 によって、私達が考えている事、計画している事が、実現してゆくのを体験していますね。
○ では、このような創造力の欲求の源は、どこから来るのでしょう。それは、天地万物を 「言」 によってお造りになった、神様から来ているのです。私達人間は、神様のイメージに従って造られた被造物だからです。神様のイメージとは、知性と感情と意志、あるいは道徳性を持った存在として、人間は造られました。
○ ですから、私達人間の本質に、創造的欲求があるのは当然です。私達も、神様と同じように、「言」 を使い、様々な道具を造る者なのです。聖書の言葉です。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。」 (ヨハネの福音書 1:1)


 

第1回 はじめに、神は                       2011年6月19

創世記 1:1 「はじめに神は、天と地とを創造された。」

○ 今日からは、旧約聖書の福音書と言われています「創世記」から、お話しします。創世記の1章1節を読みます。「はじめに神は、天と地とを創造された。」
○ この宇宙と、世界とには、「はじまり」がありました。では、この宇宙の誕生は、どのようにして生じたのでしょう。そして太陽系の一つの惑星、この地球は、どうのようにして生まれたのでしょうか。
○ 聖書は、神様が、この「天と地」を創造されたと宣言しています。新島襄という人は、この創世記1章1節の言葉を読んで、キリスト教徒になったそうなんです。
稲毛 教会○ ある天文学者が、銀河系の中にある小さな太陽系の模型を造りました。太陽を中心に、水星、金星、そして地球、火星、木星、土星、天王星、海王星、冥王星と配置した正確な模型です。友人が訪ねて来て、「いや素晴らしい太陽系の模型だね。どうしたんだ。自分で造ったのか。うまいね。」すると天文学者は答えました。「いや、偶然に出来たんだよ。」「またまた。そんな冗談言って。」「いや、一晩寝て起きたら、太陽系の模型が完成していたのサ。」
○ ところで、この太陽系の世界が偶然に出来たと、多くの人々が信じています。私達の住む地球が、1日24時間で自転しながら、秒速30キロメートルの速さで、太陽の周りを365日かけてぶっ飛ばしているのです。宇宙服を着ることもなく、重くもなく、軽くもなく、私達は自由に動いています。なんと、宇宙旅行をしているんですよね。
このような秩序と正確さを持った太陽系の営みと運行が、偶然に出来るでしょうか。偶然からは、何ひとつ生み出すことはないし、存在しないということです。偶然からは、机ひとつできないでしょう。そこには、設計者と設計図、そして材料が必要となります。
○ 聖書は、その冒頭において、この天と地を、創造された神様の存在を明らかにしています。この宇宙と地球は、創造の神様の作品なのです。聖書の言葉です。
「もろもろの天は神の栄光をあらわし、大空はみ手のわざをしめす。」(詩篇19篇1節)